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写真

の37年間のギタリスト生活で、常に最も有名なギタリストたちに出会い、 学ぶ機会がありました。ここに載せた写真は私の人生での最高の瞬間を刻んでいます。このページはクラシックギターその物や関連するものを並べているわけで はなく、クラシックギターの生徒、演奏者、教師としての私の人生における歴史的瞬間を、このサイトに訪れた多くの方々と分かち合えるようにした場所なので す。

私の音楽キャリアは8歳の時にイタリアのタラントでスタートしました。今は15,000km離れたパラグアイのアスンシオン で、音楽家として37年目を迎えたことを祝っています。パラグアイは美しい国です。私の両親がブラジルに住む叔父を訪ねた1974年に、私は初めてこの国 を訪れました。パラグアイは私たち家族全員に強烈な印象を与えました。けれどもまさかここにずっと住むなどとは思ってもいませんでした。もう30年が過ぎ ましたが、他のところへ移ることなど考えられません。両親は2006年にイタリアに戻りましたが、私は残ることに決めました。ウェブサイトを通じてギター を教え、ギター工房が続けられる限りはここに居るつもりです。


それでも私は、「永久に」という言葉が道を外しやすい陳腐な言い回しであることくらい分かる年齢になっています。

私は一つの"真実"を強調せねばなりません・・・セゴビアは過去最高のギ タリストでした。彼がギターという楽器のための道を切り開かねばならなかったからというのが大きな理由です。20世紀の初めにはギターは一般人にほとんど 知られていませんでした。セゴビアは、有名なサンティアゴ・デ・コンポステラ(スペイン)やシエーナ(イタリア)でのマスタークラスに参加した多くの若者 のキャリアを「後押し」しました。そして悲しいことに、多くの奏者たちのキャリアを奈落の底へ、文字通り突き落としたのです。セゴビアがクラシックギター 界で行ったような、楽器に甚大な影響力を持つ音楽家は、絶対ゼロだとは言えないにせよ、ほんの僅かでしょう。


1枚の写真は無数の言葉に匹敵しうるものです。この偉大なマエストロと過ごした時間は私の人生を永遠に変えました。下の写真は、マドリッドにあるセゴビアのスタジオで個人レッスン中に撮ったもので、私はバッハのロ短調のブーレを弾いていました。

セゴビアとレナート・ベルッチ
レナートとアンドレス・セゴビア、1984年マドリッド

私の手は冷たく湿っていました。マエストロは私にちょっとしたアドバイスをしました・・・「弾き始め る前には、私がコンサートの前にやっていることを試してみ給え。もし手が冷たかったら時間をかけて暖めなさい・・・冬のニューヨークでコンサートした時 は、演奏前に魔法瓶にお湯を入れてくれるよう頼んだことがあったな。それで10分くらい手を温めんたんだ・・・聴衆は10分以上待つ羽目になったが、良い 演奏のためだからな・・・」。人は歳をとるに従い賢明になるものです。このような素晴らしい瞬間が若いギタリスト――音楽院を 卒業して、最初のメジャーなコンクールに優勝し、前途洋々の私の――人生に意味する感情、感覚、印象のすべてを言葉で表現するのはとても難しいことです。 1983年、私にとってセゴビアは地球上で最も重要な人物でした。

私はギターを抱えてエレベーターを降り、この中位のサイズのたいして高くない建物の屋根裏部屋へあと数歩で辿り着くという情 景を覚えています。セゴビアはマドリッドに所有するアパートの屋根下に居間とスタジオを構えていました。私はこのばかデカいドアを開ける鍵の音を聴いて (本当に金庫の扉並みでした)、不安で心臓が高鳴り始めました。ついにドアが開き始め、その偉大な(そして老齢の)生身のギタリスト本人が私の眼前に姿を 現しました。マスターは私を招き入れる仕草をして、歓迎してくれました。

私は白昼夢を見ていたのか分かりませんが、最終的には手にキスしたか握手をしたのでしょう。スタジオの真中に進む1歩ごとに 身をツネリたい思いでした。「ヘェー、これがスタジオに見えるか?」幾多の思いが交差します・・・右の壁には色々なギターケースが並び、セゴビアの練習用 部屋によく馴染んでいました。

が使っているものは全て大きく感じられました・・・大きな譜面台、大きなクッション付足台、それにもちろん 大きなピアノ用椅子。全てが木製で統一感がありました。彼の頭上には1枚のポートレートが飾られ、もう1枚の巨大なポートレートは主扉のそばに架けられて いました。もちろん両方ともセゴビアが題材です。たくさんの写真があちこちに散乱し、彼はいろいろな人物と一緒に写っていました・・・楽譜はもうそこかし こに・・・


上の写真は1980年の「ナショナル・ジオグラフィック」に載ったものです。スタジオはほぼこの通りでした。ただ2点違うの は、1- カメラマンは逆光を防ぐため窓に小さな布をかけているし、2-セゴビアはいつもバスローブで練習していて、写真を撮るときだけ小ぎれいな服を着ている点で す。私の撮ったマエストロを見れば、彼の「普段」着がわかるでしょう。
>マエストロと写った写真が撮られた場所は、この写真の左下の床のギターケースがあるちょうどその横でした。小さなテレビがそこを個人的な居間風にしています。

が観察できたのはそれだけでした。彼がスタジオに入る大きなドアを閉めてすぐに、私に近づいて座るよう促し たからです。私の経歴や練習についていくつか質問しましたが、自分が何と答えたか思い出せません・・・彼の言葉しか記憶にないのです。一つ覚えているの は、彼の60年代初頭に録音したバッハのブーレとフィナーレをずっと聴き続けてきたこと、それがとても大好きなことを伝えたくて、私は彼に話しまし た・・・それに応えて彼は私に尋ねました「君はそれを弾くのかね」・・・私が「はい」と答えると言いました「では私に聴かせてくれ」・・・

は言葉を失い、1本の指さえ動かせるのかどうか本当に自信がありませんでした。私がマスターのために演奏し ようとしている・・・子供の頃からの憧れの人のために。私は深呼吸して弾き始めました。・・・その場の雰囲気が私に力をもたらし、人間の脳が同時にたくさ んのことを考えることを信じられませんでした・・・両手がギター巡って動きながら、私の想像は時速1000マイルで駆け抜け、圧倒的な達成感に満たされ、 そして勿論、躍動感あふれて・・・

がブーレの最後の和音を弾き終えると、数秒の沈黙の後、セゴビアは右手を伸ばしてよくやったと 私を揺さぶりました・・・彼はそう簡単に感銘する人ではなかったし、私にもそんなつもりはありませんでした。彼は続けてブーレの楽句のいくつかを解説し、 楽曲の編曲の仕方について話してくれました。その曲が燦然と輝くようになるか、オリジナルの楽器より輝きを増すかどうかが編曲の要点なのだと言いました。 彼は常に手振り身振りを交えながら話し続けました。

に彼は私のギターを手にとってまじまじと眺めました。私は 1976年にイタリアのLuis Arbanが作ったギターを使っていました。セゴビアはあらゆる角度から観察し、その楽器の扱い方には驚かされました・・・つまるところセゴビアとギター は90年間一心同体だったのです。彼はギターを私に返し、スタジオの右の壁に並んだケースの一つを持ってきてくれと言いました。

私がスペインで暮らしていた時に指導を仰げた最初の偉大なマエストロがナルシソ・イエペス(Narciso Yepes)で した。小柄だが偉大な人物でした。彼のラス・ローサスの家に行くには50キロも旅する必要がありました。彼は革新者でした。ラミレスに頼んで作らせた10 弦ギターでデビューしたのです。この写真で私はバリオスの「神の愛のほどこし」を弾いています・・・彼は曲など聴いていませんでした。私が弾き終えるとす ぐに言いました。「君のトレモロはとても滑らかで"水晶”のようだね。私自身は、自分がはじめて聴いた時の演奏の方が好きだが・・・たしか楽譜があったはずだから探してみよう・・・来月のイタリアのコンサートで弾けれたいいな・・・」。トレモロを完璧にこなす一人の人間から出たこの言葉は、確かに若い私の自負心を高めました。

間違いなく私に最も大きな影響を与えたマエストロがアベル・カルレバーロ(Abel Carlevaro)でした。実際これからのページで、私はこの「影響」という単語について詳しく語るでしょう。

私は常に言うのですが、カルレバーロたとえどんな楽器を選んだとしても優れた解説者になったに違いありません。彼は、私が独力で考えるべきだと思っていましたし、彼のテクニックは数年にわたる内省の結果だったので、私から同じ「愉しみ」を奪いたくはなかったのでしょう・・・あるレッスン中に彼は言いました。「私が言うことを君の脳が納得しない限り、どんな事もしちゃいかん」・・・マエストロと出会ってから6ヵ月後に、私は有名な「マニュエル・コントレアス-RIP-カルレバーロ・モデル」のギターを注文しました。私は今でもこのギターをコンサートのメインで使っています。

アベル・カルレバーロとレナート

下の写真(ページ2)1986年の夏、USCで行われた有名なマスタークラスの最中に撮ったものです。皆そこにいたと思いま す。クリストファー・パークニングは皆に溶け込み、時を共有し、自著にサインしていました。彼はサインの下に本当に鮮明に率直に"Jn 3:16"と書き加えました。彼は常に彼を特徴づけているその寛大さと飾り気のなさを示していました。他にいたのは Michael Lorimerや Marcelo Kayath、・・・

それがこの偉大なスペイン人に会った最後の時でした・・・6ヵ月後に肺炎で亡くなったのです。彼が最後に私に言った言葉は「・・・それで、レナート、いつもギターに夢中かね」・・・そして私はマエストロが車に乗り込む時にチラッと目を交わし合いました。

私が生徒たちや友人にする最大のアドバイスは、夢を持ち、夢に生きて死ぬべきだ、というものです。それが「正しい」夢であることを確かめてください。偉大なマエストロたちは、彼らの中の生徒の部分で大きな努力を追求しているのです。

マエストロ、アベル・カルレバーロは先頃、コンサートとマスタークラスの旅行中にドイツで亡くなりましたが、多くの面で革新 者でした。彼の妻が、モンテビデオのアパートで撮ってくれたこの上の写真(上)で彼は私を生徒にしてあげると言っていたところです。私はその時スペインに 住んでいましたが、1年間彼のもとで学ぶためにモンテビデオに引っ越しました。カルレバーロについてもっと知りたければココをクリックしてください。

1969年イタリアでの若きレナート・ベルッチ


左の写真は、1986年にマニュエル・コントレアスのギター工房で撮ったコントレアスと私です。右のは1969年の私です。私が最初に公衆の面前で演奏したのはイタリアのバーリにあるディ・カーニョ・アッブレシア・スクール(小学校)でした。アームストロングが月に降り立つのを観る数週間前のことでした。

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